振れ幅を大事にしながら、誰かが誰彼でもなく、叫ぶ文章は、なんだか気恥ずかしい。ドキッとする。明日、お昼の食事のとき、手に持つお箸に米粒がついていないか、注意深く確認しましょう。
夢を見た。以前会ったひとと、手をつないでいた。空を飛びながら、実家の近くで山が燃えているのを観た。その火は実家の手前で留まった。夢をみると、気になって夢診断で調べる。この出来事は、どういう心境を表しているのだろうかと。夢は、身体に密接ではあるが、感情とは遠い意識だと感じている。どこからかやってくる未確認のものである、私にとって。やがて私は、外部に情報を求めることによって、そのハプニングと接合する。真実とは決して言わないが、接合によってなんらかの影響を私は受け、そのあとの私はなにをするのか。投げやりに想っている。
ふと思い出すのは、大きな古墳のある公園を散歩した日のことである。駅で待ち合わせたあと、近くの寿司屋に入り昼食をとった。そのあと、公園に行って散歩をした。なんとはなしに、そぞろあるいて、近頃のことを話して、そして帰った。あの日の公園には、大きなステージや、鳥の浮かぶ池や、芝生のあるなだらかな丘があった。いまもあるだろう、それらは。散歩をすることは、いまでもとても好きだ。
アンパンで出来た顔の人間がいたとする。アンパン=顔は、ちぎって食べる事ができる。道行く人、お腹をすかせた誰か、元気のない誰かに、自分の顔であるそれをちぎって渡す。アンパンを食べたひとたちは、たちまち元気になるとしよう。それから、アンパンで出来た顔の人間は、アンパンで出来た自分の顔が欠けてしまったため、少し元気がなくなる。では。アンパンで出来た顔の人間そのものが、自分のそれをちぎって食べたとしたら、どうか。元気になるのか、元気がなくなるのか。別段なにも変わらないのだろうか。しかしながら、顔は確実に欠けてしまう。食べる事で、またアンパンが修復されたりするのだろうか。それは、結構な未来の話なのだろうか。
3年ほど悩んで1枚のCDを買った。どれだけ悩んでもいらないと思って手放してしまうことも多いし、手放してしまったあとで後悔をしたとしても、それもどうでもいいといつしか思っている。この癖が直ればいいとは思うが、直らなくてもかまわないと思う。いつでも、なにごとにも、そこには、なにもないような。
デジタルカメラを買った。一眼レフで、50mmの単焦点レンズである。50mmというのは、小津安二郎の撮影していたレンズのサイズと同じである。なんとなく、それが気になってそれだけの理由で、50mmの単焦点レンズを買ったのだが、デジタルだと画角が変化するのだという。デジタルで50mmの画角を出すのならば、35mmレンズを使う必要があるそうだ。リズムに合わせてゾウが浮き沈みしている。これは心の描写である。
港町の小さな美術館で、死刑囚の表現を扱った展覧会をみた。展覧会の意図には、“死刑の是非を問うものではなく、表現を問うものである”という注意が添えられていた。それぞれ、作品のタイトル下には、死刑囚の名前と、死刑確定日・執行日の日付が添えられてある。すべての作品を一通りみたあと、しきりに気になって浮かんだのは、死刑囚がなぜ死刑となったのか、という疑問。この一点に尽きた。表現といえども、表現のみだけで語るには、どこか威力が薄く、なに物足りなさや鮮度の無さを感じた。
展覧会を観た日から数日後、死刑囚の名前を検索し、死刑囚がなにをもって死刑とされたのかを調べた。けれども、あの日観た作品がだれの何のものか、もうほとんど覚えておらず、そのような経緯をみたところで、何も変わりはしないのだろうか。作品に対する姿勢が変わったりはしないのだろうか。と、よくわからない。
気になるのは、表現を扱うにあたって、表現に対するどういった情報をどの程度あつかうのか、そのセンスや容量である。とりわけ、死刑囚の表現を扱うとする場合、私は、その経緯も含めて表現を観たかったと、改めて思う。
自分のことについては、とても気になる。自分がなにを思いどう考え、成すか。いったい、どこに向かうのだろうか、など。しかしながら、自分のことを大切と思うかどうか、大切にしているか、できているかどうか、はまた別のことのように思う。なにか、取り返しのつかない大きな失敗をしそうだと予感しても、失敗をしてこころの底から後悔をして、どうしようもないほど、悲しむが良い、と思う。それがお前のしたことの刻印であり、受け取るべきであるから、受け取り、それでもその上で生きろ、生きてみるがいい、と考えている。考えるのは、意識であるが、なんとなく、こう考えるプロセスは、意識よりももっと、深く刷り込まれてインプットされた、あるいは呪いのようなものに、自分自身は感じている。そんなことになりそうな出来事が予測されるならば、その時点で引き返すなり、別のドライブ感覚があるはずで、そちらを選ぶこともできるはずなのだが、どうしても、その失敗が科せられた自分がどう這い上がれるのか、気になってしまう。これを、業と呼ばれるものなのだろうか。それでは、それも踏まえたうえで、もうしばらく考えてみてはどうだ、と語りかけてみても。もういいよ、それで、と半ば諦めのような。いまさらどうしようもないような。
文章を解体すると真実が得られるかというと、それだけでは難しい。文章を解体すると、単語や接続詞に分けられる。それぞれの単語に、どういった意味があるのか。わたしはそれを理解しているのか、理解していないのかが。まずそれが分かる。それぞれの接続詞が、それぞれの単語と、どういった関係性にあるのか。わたしはそれを理解しているのか・理解していないのか。まずそれが分かる。
分離不安障害という精神的な症状がある。調べてみると、私自身の感じる不安にとても似ているので、情緒不安定になる際の原因は、これに違いないと感じた。
あるページで、対処法を読んだ。まず、だれと分離している不安なのかを考えたあと、その人とのつながりを探すのだという。また、新たなつながりをイメージするのだという。つながりを感じられない場合は、つながりを探すところから繰り返しイメージし直すのだという。イメージできるつながりを探してみたのだが、決してつながるまいとする、頑として動かないものが、自身のこころにはあり、つながりをイメージすることができても、それを肯定したくない。このような場合は、いったいどうすればよいのだろうか。私はどうしたいのだろうか。
ただ、とても悲しくて、涙が止まらなくて、それでも別にいいと、強気に出るまでには、もうしばらくの時を必要に感じる。